本郷クラブ2004年度例会
第6回 12月例会(12月4日)午後2時〜
岡田正人 織田信長の手紙を読み解く
(場所=東京メディア工房)
★会場スナップ写真★

講話者 岡田正人(歴史家・時代考証)
講話 織田信長の手紙を読み解く
講師略歴
歴史家・日本ペンクラブ会員
昭和24年 横浜市生まれ
昭和48年 國學院大學文学部史学科卒業。角川文化振興財団にて『角川日本地名大辞典』の編纂に従事。のち、歴史雑誌の『歴史読本』、『歴史と旅』、『歴史群像』などに、主として戦国時代関係の論文や読み物を執筆。特に織田信長をメインテーマとする。
【主な著書】
『織田信長総合事典』
現在執筆中のものに『信長の手紙』や『天下人秀吉の全人脈』などがある。
【テレビ関係】
平成4年にNHKテレビ大河ドラマ『信長』の時代考証を担当。
日本テレビの番組「しってるつもり」の戦国武将を扱った『明智光秀』、『伊達政宗』の出演のほか、NHK「そのとき歴史は動いた」などにインタビュー出演する。
【資料】
織田信長文書の概要
織田信長書状
織田信長自筆書状
堀 秀政副状
織田信長書状(32歳)
織田信長朱印状(34歳)
織田信長朱印状(48歳) |
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第5回 11月例会(11月6日)午後2時〜
田坂 昂 「平
将門」伝説を読む
(場所=東京メディア工房)
★会場スナップ写真★

講話者 田坂
昂(作家)
講話 「平
将門」伝説を読む
◎沼沢地と低い台地
将門の世界を考える場合には、古地形の復元が不可欠となる。この辺りの地形は全体として北に高く南に低いが、海抜30メートルをこえる地点はない。河川は南流し、東からはいる道は鬼怒川と飯沼にさえぎられている。将門を攻める常陸の敵は、つねに北方の下野方面から遠まわりをするか、これは直接東から向えばいくつもの河川や沼沢を越えねばならぬためであり、同時に高地から低地を攻めるという軍事上の当然の配慮でもある。
現在では豊田・猿島両郡の地域は、沼沢地の干拓による豊かな水田をもち、丘陵部の畠はメロンや水瓜・白菜などを産し、都市近郊農村として活気を呈している。しかし江戸時代の沼沢地干拓以前には、水田はきわめて少なく、沼沢地縁辺の小規模な水田にかぞられる。現在でも、まれに台地にはいりこんだ古い谷田をみかけるが、一般に深田で米はまずいといわれており、耕作を放棄されているものも多い。もっとも、この地方は古くから陸稲地帯として知られるが、これも年降雨量による影響が大きく、安定性を欠き生産も低い。「病気になると、病人の耳もとで米を入れた竹筒を振った」という話が、ごく最近のこととして語られている事実も、米が貴重であったことを示している。
◎伯叔父たち
ここで、将門にとってはおじに当る良持の兄弟たち、および将門の兄弟と妻について述べておこう。
室町時代にととのえられた『尊卑分脈』は、系図のなかではかなり信懸性が高いが、高望王の子として国香(本多良望、常陸大掾・鎮守府将軍)、良兼(下総介)、良茂(鎮守府将軍)、良孫(上総介・鎮守府将軍)、良広、良文(村岡五郎)、良持(下総介)、良茂(常陸少掾)の8人をあげ、良茂の子に良正を載せている。「よしもち」という人物が良望(国香)・良持・良茂の3人、「よしまさ」が良将・良正の2人あって重複が考えられるし、『将門記』の記述とも矛盾するものがある。
『将門記』には将門のおじとして、国香・良兼(下総介)・良正の3名が登場する。『将門記』は伯叔の区別をしていないので、兄弟の上下関係は明らかにしがたいし、その母も不明で、おそらく同腹ではなかろう。しかし族長の地位は、高望から良望(国香か良持か不明)―良兼と兄弟に継承されたのであって、このように族長が親―子―孫という直系継承ではなく、より古い傍系継承であったことは、一族内紛と深い関係にあろう。
国香は、のちの伊勢平氏につながる貞盛、および常陸大掾家の祖となる繁盛の父であり、良兼の子には公雅、公達および将門の妻がいる。良文は『将門記』には登場しないが、「武蔵野開発の父」ともいわれ、その子孫は、千葉・上総・三浦・畠山・川越・豊島などとして、南関東の各地にひろまる。なお高望王の娘として、常陸国守藤原維幾の妻で為憲の母が系図にみえている。
【資料】
「平
将門」関係地図(1)
「平
将門」関係地図(2)
「平
将門」関係地図(3)
「平
将門」系図 |
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第4回 10月例会(10月2日)午後2時〜
◆第1回公開講座◆
高瀬昌弘 鬼平犯科帳人情咄
ビデオ上映 『鬼平犯科帳人情咄』
(場所=文京区民センター)
★会場スナップ写真★

講話者 高瀬昌弘(映画監督)
ビデオ上映と講話 『鬼平犯科帳人情咄』
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第3回 9月例会(9月4日)午後2時〜
石塚静夫 書の文化
(場所=東京メディア工房)

講話者 石塚静夫(書家)
講話 書の文化
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第2回 8月例会(8月7日)午後2時〜
阿伊染徳美 グリーンマン伝説をめぐって
──スライド上映──
(場所=東京メディア工房)

講話者 阿伊染徳美(画家)
講話 グリーンマン伝説をめぐって
──スライド上映──
講師略歴
1935年、岩手県生まれ。90年よりイギリス在住、95年、カサリン・バスフォードに「グリーンマン」について教示を受ける。同国で個展「グリーンマンと古事記」などを開催。著書に『わがかくし念仏』など。
【資料】
朝日新聞紹介記事
講話メモ |
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第1回 7月例会(7月3日)午後2時〜
佐古岡清生 舞台は本郷1丁目・春日・駿河台─東京府立工芸高校と東方社
昭和17年、日本軍の海外宣伝誌『FRONT』(フロント)はこうしてつくられた
(場所=東京メディア工房)
★会場スナップ写真★

講話者 佐古岡清生(デザイナー)
講話 舞台は本郷1丁目・春日・駿河台─東京府立工芸高校と東方社
昭和17年、日本軍の海外宣伝誌『FRONT』(フロント)はこうしてつくられた
◆わずか59年前…終戦と同時に歴史の闇に葬られた幻のグラフ誌『FRONT』
・東京府立工芸学校製版印刷科の科務室で原弘(はら
ひろむ)先生の助手にどうかと…
・東方社の理事長は映画俳優、スタッフは自由主義者と共産党員
・15カ国語に翻訳された「海軍号」と「陸軍号」(A3版・通巻15号)
・戦車学校の取材と合成写真/『戦線』のモンタージュ写真
・「VICTORY」と「風と共に去りぬ」の衝撃
・『FRONT』が戦後に残したもの
→月刊「太陽」平凡社、季刊「銀花」文化出版局、「るるぶ」日本交通公社、他多数(創刊号等の現物を以て、デザイン解説させていただきます)
◆22年前?から始まった…関連資料の発刊年が証す『FRONT』の名誉回復
1981.7.20「名取洋之助の時代」―ルポルタージュ・フォトの創始者―(朝日新聞社)
1985.8.23「週刊ポスト」―これが戦時中の写真のワナの恐怖だ!―(小学館)
1988.5.10「戦争のグラフィズム―回想の「FRONT」―」多川精一(平凡者)
1991.4.10「報道写真の青春時代―名取洋之助と仲間たち―」(講談社)
1992.6.24「栄光なき天才たち?―名取洋之助―」(集英社)
1993.10「にっけいでざいん」―海の向こうへ消えたグラフ誌―(日経BP社)
◆多川精一先生との出会いが僕の一生を決めた
・日本エディタースクール(夜間部)の「レイアウト第二教室」で…
・平凡社「百科年鑑」創刊の助手を紹介され、一度は承諾したのに…
・東京デザイナー学院(夜間部)の「卒業制作」が僕の編集デザイナーとしての原点
・卒業制作から13年後の小冊子「編集デザイナー入門」に寄世られた恩師の手紙
・編集デザイナーと母校教官の二重生活15年で教えられたこと
・「真実の割リ算」など、いまやっていること、やろうとしていること
※直近の作品で“良いデザイン、悪いデザイン”を解説予定
本郷在住26年目の「本郷ムラ新住民」です。少しでも皆様のお役に立てればと思います。どうか宣しくお願いいたします。
【資料】
戦争のグラフィズム
海の向こうへ消えたグラフ誌 |
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